緋色の月 ――circulating madness――
もう一人の自分は、死をもたらすという。
私は私ではなかった。
そして、私は私だった。
* * *
『彼女』はずっと、私の中に潜んでいたのかもしれない。おそらく、『あの子』と出会った時から。
私が気付かなかった、あるいは目を背けていただけで。
『あの子』の名前など今は忘れてしまったが、あの瞳だけははっきりと覚えている。微笑んでいる口元とは対照的に、嘲りに満ちた表情をしている、あの瞳。
その印象は私にとって、『あの子』の存在そのものと言ってもいい。それは指先の切り傷のように、些細なものでありながら、鮮明な痛みを伴っていた。
『あの子』にとって、私は何だったのだろう。
例えば理科の実験。『あの子』は私に全てを押し付け、失敗すれば私一人を罵った。
例えば物を貸してあげた時。戻ってきたときには、明らかに悪意を持って、どこかしらを壊していた。
例えば合唱の練習。『あの子』は仲間と結託して、私一人だけを歌わせた。
私はいつも、ただ耐えているだけだった。些細な事だと笑顔を作り、それができなければ、唇を噛み締めて俯いていた。
私は『あの子』に怯えていた。しかしそれ以上に、私は溜まっていく自分自身の怒りに怯えていた。
私は怒りという感情が嫌いだった。何かの拍子に溢れ出す言葉は、頭の芯が熱くなるような感情とは裏腹に、私自身がぞっとするほど冷たい、氷の刃のようだった。
それはまるで、私に潜んでいる何かが、突然存在を現したかのようで。
私はその存在に怯え、同時に開放感を感じていた。その言葉こそ、真に私の言葉だから。しかしそれに気付いた時、私は自分に眠る冷たい憎悪に、一層恐怖を抱くようになった。
――そう、私はずっと怯えていた。他でもない、自分自身に。
ごく普通の夕暮れ。いつもと変わりないリビングルーム。何気なく見たニュース。
それが、私にとっての始まりであった。
『続いてのニュースです。昨晩、S県H町で女子高生が殺害され――』
キャスターが、無機質な声で読み上げていた。
S県H町。彼は確かに、私の町の名を告げた。
それは、のどかで平和な田舎の町に、あまりに似つかわしくない事件だった。母親がこのニュースを聞いたら、必要以上に騒ぎ立てるに違いない。
画面が変わり、被害者の写真が現れる。
あの目だった。そこだけ無表情の写真を組み合わせたかのような。
鼓動が高まっていく。寒気が足元から這い上がってくる。
頭の中に、幾つもの映像が流れた。『あの子』の瞳。『あの子』の微笑み。滲み出す悪意。
その時の私の感情を、どう言い表せばいいのだろう。
私は何もしていない。それなのに、憎しみだけが一人歩きしてしまったかのような。
それは、戸惑いと罪悪感。曖昧な後ろめたさ。そして――得体の知れないものに対する、恐怖。
ニュースはまだ続いていた。キャスターは、証拠が見つかっていない事、目撃者もいない事を告げた。
目の前には、闇があった。
月明かりすら吸い込まれそうな、闇。
まるで闇に溶け込むかのような、黒いセーラー服の後姿が、静かに佇んでいた。私の学校の制服だ。
前方から、別の制服が歩いてくる。
それは、間違いなく『あの子』だった。何故かはっきりとわかる。別の学校に進学し、それっきり会っていないはずなのに。
セーラー服の姿を見つけ、『あの子』は唇の端を歪め、あの表情を作った。
「あら、久しぶりね」
セーラー服は答えなかった。すっと一歩近づき、『あの子』の腹部に、何かを突き立てる。
『あの子』の表情が変わっていた。見ている者すら痛みに呻くような、苦悶の表情に。
『あの子』は倒れた。下半身が、何かに濡れている。
わずかな月明かりに照らされた、鮮やかな、緋色。
セーラー服が振り向いた。緋く染まったナイフと手が、くっきりと浮かび上がる。
焦点は少しずつ上がっていった。
歪めた唇が見える。見開いた瞳が見える。顔の全てが、はっきりと認識出来る――。
それは、私だった。『あの子』と同じ表情をした、私。
その唇が、動く。
「逃げても無駄よ。私はあなた」
|