死神のお仕事
序章 黒猫
紅。
視界がぱぁっと深紅に染まる。
ほとばしる血液、沸き上がる恍惚感。
吹き出した血は服の上から身体をも紅く濡らしていく。
密かに自慢の、長い長い黄金色の髪にもべっとりと血糊が貼り付き、真っ白だったシルクの夜着も無惨に穢れてしまっていた。
痛みはない。むしろ、体が芯から熱くなって、この肌寒さには心地よかった。
視界がだんだんと狭まるのを感じる。遙か頭上に、花の刺繍の施された豪奢な天蓋。ふらふらと持ち上げられた腕が、虚空を掴み損ねてぱたりと落ちる。
血にすっかりまみれた手は、固い物に触れた。それは腹部から生えていた。
――ナイフの柄。
切っ先は背から、ぬらぬらと光る刃先を覗かせる。
「あ……」
声にならない声。
喋ろうにも、口からは空気が虚しく漏れるだけ。
言葉を紡ぐだけの、唇を僅かに震わす余力すら、残されてはいなかった。
「はぁ……」
溜息と共に、肺に残っていた酸素を残らず吐き出した。
もう、瞼を押し開けているのも辛い。とめどなく押し寄せる睡魔。眠ってしまえと、甘美な囁きが耳元で聴こえる。
最期の場所に選んだのは、まさしくベッドの上。
体をくの字に折り曲げ、顔半分、左半身を紅い水溜まりに浸し……。
わたしは、来るべき時を待っていた。
「なにも、そう死に急ぐこともあるまいに……」
どこかから、年齢不詳の男性の声。ぼんやりと、枕元に気配は感じた。
体が、精神が、深淵へと引きずり込まれていく……。
意識を失う寸前、その声の主がふっと笑ったように、わたしには見えたのだ……。
にゃ〜……。
…………。
にゃー、にゃっ。
「いたっ!」
ほっぺたに走った微かな痛み。
わたしは咄嗟に、蚊を追い払う要領で手を払う。
ふにゃあ!
予想外にも、手の甲がモノに触れた。
「ふぇ?」
何かがあった場所を、薄目を開けたわたしは手探りでそれの居場所を突き止める。
二、三回、右手が空を切った後、確かな手応え。
つまんだ手の先にぶらさがっているのは、黒い塊。
ふさふさの毛、ピンと張った長い髭、ちょっと生意気そうな蒼い目。くりくりとよく動く両の瞳が、上からわたしを見下ろしていた。
「……猫さん?」
わたしは物珍しげに、それを目線の上へと移動させる。
カリッ。カリカリッ!
「きゃっ!? こらぁ、やめなさいっ!」
首根っこを掴まれたのが余程気に入らなかったらしい。
それは事もあろうに、わたしの顔のすぐ上で手足をばたばたさせて暴れ始めた。おまけに爪を立てていたもんだから、目の下や鼻の頭を思いきり引っ掻かれてしまった。
うにゃー!
猫さんは自由を取り戻し、器用に一回転して地面に着地。
不機嫌そうに、低く唸った。
「んー……」
わたしはというと、この小さな不幸に、ただ目に涙を浮かべるしかなかった。
きっと、顔に赤い筋を作って半泣きのわたしを誰かが見ていたら、吹き出していたと思う。
「あれ?」
そこで、ようやくわたしは気づいた。
わたしは、今まで何をしてたんだっけ?
それに、ここは……。
…………。
いつのまに横になってたんだろう。
起きあがろうとすると、ぎしぎしと揺れた。寝違えたのか、肩や背中がひどく痛む。
そこは、塗装も剥げた粗末な木のベンチの上だった。
「ふぁ〜……」
道理で……。わたしは姿勢を正し、痛みを堪えて大きく背伸びをする。
無理な姿勢で寝ていたらしく、体の節々が一斉に悲鳴をあげた。ますますもって涙が出てきて、頬を一筋、雫が流れ落ちた。
どこか知らない街の、緑豊かな公園。
そうとしか、言いようがない。
「えっと……」
母親とはぐれて、迷子になった子供の気分だった。
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