左右を見回しても、植樹された並木と、その先に見知らぬ街並みが広がるだけ。少なくとも、わたしはここへ来た経緯に思い当たる節がない。
ポツ。
涙が、膝の上に落ちて吸い込まれる。
「わぁっ?」
びっくりした。
って、今まで気づかなかったのがおかしいくらいなんだけど……。その、着た憶えのない恰好を、わたしがしていたからである。
見たこともない真っ黒な服で、裾や袖先に銀糸で細かな刺繍が施されている。ゆったりした首周りには、小さなリボンの飾り。質素ながら気品があって、お屋敷のわたしの部屋のクローゼットにある衣装にもひけはとっていない。
俯いて視線を落とせば、同じ色のブーツが目に入った。そればかりか、星の形をした首飾りまで、自分が身につけていることを今さら知った。
「うぅ」
正直、わたしは泣きたくなった。
ここはどこだかわからない。知らぬ間に着替えさせられている。いろいろな意味で、重症だった。
これが記憶喪失か夢遊病でないとすると……、まさか……誘拐!?
「おい」
唐突に、ずっしりした重みが頭を襲う。
それから、低い声。
「いつまで寝ぼけてるんだ。起きろ」
声は直接頭の中に響いてきた。
それもそのはず、声の主はわたしの頭にのっかってた。
「重い……。降りてよー」
「ふむ。一応、目は覚めたようだな」
彼はわたしの苦情を完全に無視。そのまま居座り続けた。
「ねぇ。ここどこ? あなた何か知ってるんでしょ?」
「半分はな」
「?」
何故か……、会ったことがある気がした。彼とは。
『彼』というのもわたしの思いこみに過ぎなくて、まだ姿形もはっきりしないから自信はない。
この時点で、わたしは彼にいたく興味を覚えていた。実のところ、直感的に彼の正体は察知していたし、それが異常なことだとも思わない。
ただ、面白いことが起こっているんだなって、そう思っていた。
「ったく、呆れたヤツだな。憶えてないのか?」
「全然」
「…………。はー、お前みたいなのがいるから、こっちは苦労するんだ」
「どういうこと?」
怪訝な顔で訊く。
すると、彼はこう答えた。
お前は、自殺したんだよ。自分で心臓にナイフを突き立てて、と。
「あー。そういえば、そんなことがあったような……」
まるで夢の中の出来事のように、ひどくあやふやで、不明瞭。
一部始終を聞かされてなお、わたしにはほとんど他人事のように思えた。
言うなれば、本当のわたしはどこか別にいて、ひどく冷静に、愚かしいことを平気でするもう一人のわたしを眺めている。
だから、あんな馬鹿な真似を……。
「名前はメアーチェ=ルゥ=シエル。西方貴族連盟に名を連ねるカミール侯の一人娘。絵に描いたような何不自由ない生活を送るも、逆にそれがイヤで自殺を図る、か。典型的といえば典型的だな。自殺の動機としては」
彼はぴょんとジャンプし、わたしの膝の上に降り立つ。
ゆらりと、長い尻尾が左右に揺れた。
「わっ、ど、どうしてわたしの名前を!?」
「歳は十七。ほうほう、縁談もまとまってたのか。政略結婚ってやつだな。性格は、我が儘で気分屋で、歳の割には言動が子供っぽい。ま、童顔だからちょうどいいかもしれんが」
「余計なお世話よっ!」
猫が人語を操ったことよりも、わたしのことを知ってることの方が先に驚かされた。
なにせ、お屋敷からは全くといっていい程、外に出してもらえなくて、友達はおろかわたしという人間の存在を知っている者すら、ほとんどいなかったのだから。
そのことでわたしがどれだけ苦しんでいたか。
お父様はもちろん、お屋敷の誰もが気づいてはくれなかった。わたしは毎日、必死で助けを求めていたのに。窮屈な篭の中の生活にだんだんと心を蝕まれて、あの日、衝動的にわたしは命を断った。
彼の言ったことは、表面的には正しい。
大貴族ではなかったけど、世襲で幾ばくかの封地を持つ家に生まれたわたしは、充分すぎる環境を与えられて育てられてきた。
そう、物質的には。
「……でだ。僕と喋ってることに疑問は感じないのかね?」
「え? ああ、ほんとだ」
どうせ、これは夢。夢の中なら、なんでもありだ。
だって――わたしは自殺したんだから。
ただ、おそるおそる開いた両手に血の跡はなく、背を貫いた血塗られたナイフは影も形もない。若干、刃が肉に食い込む嫌な感触だけは、憶えてなくもない……。
気晴らしに、わたしは目の前で澄ましている黒猫にちょっかいを出す。
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