辺りを紅く染めた血は、未だ生々しい輝きと、匂いを放っている。
血と、肉塊と、異形のものの爪痕。
そして、静寂。ただ、吹き抜ける風の音だけが、響き渡る街。
それは否応なく、あの光景を思い出させる。
彼の胸を満たすものは、怒りでも悲しみでもなく。
ただ、空白。何一つ存在しない、空っぽの穴。
それでも物色を始めるのは、自分が生きて存在している事、それを確かめていたいから。
一番近くの家に入ろうとした時、それは聞こえた。
「やめろ、助けてくれ、……命だけは!!」
それは、紛れもなく、自分と同質の――
人間の、声。
そう、生きた人間の。
ホーリィは、声を頼りに駆け出す。警戒をすることもなく。
そう、一つだけを強く願っていた。
どうか、生きて――
生きて、俺に、その姿を――
「残念だが……」
地鳴りのように、低く轟いたのは、空気の激しい震えを伴う――魔物の声。
「我々が欲するものは、その、命だ」
ホーリィが、最後の曲がり角を曲がった時。
人間の悲鳴が、静寂の世界に響き渡った。
「あ……あああぁぁぁああ――――!!」
ずしりと重たいものが、ホーリィにぶつかる。
まだ温もりを残すそれは、切り裂かれた男の上半身。
べちゃっ。
潰れたような音と共に、それは地面に落ちる。ホーリィの胸元に、生温かい液体を残して。
ホーリィの身体は、ひくひくと痙攣していた。
虚無の闇が、ホーリィを飲み込もうとしている。
ああ、そうだ、あの時だって。
闇の中に浮かぶのは、失われたホーリィの過去。
悲鳴も、泣き叫ぶ声も、許しを請う声も。
すべて。すべて。すべて。
奴らは切り裂いた。無情に。無慈悲に。
人は、死んでいく。無力に。無意味に。
その感情は、ホーリィを支えていた何かを、叩き壊していく。
ああ。何より無力なのは。無意味なのは。
俺だ。俺自身なんだ――。
気がつくと、目の前に魔物がいた。
「死にに来たのか?」
その問いかけに、ホーリィは答えない。
「まあいい……。一瞬で、楽にしてやろう」
ホーリィは、心の底からそれを望んだ。
最期の瞬間は、緩慢に進んでゆく。ホーリィの腕ならば、受け止めるどころか、懐に潜り込み、急所を突くことすら出来たであろう。
そうする意志さえ、あれば。
そうまでして生きた所で、何が待っているというのだろう。
先程と同じ、絶望か?
ならば。ここで。死――
「諦める、のか?」
はっ、と、ホーリィは意識を引き戻す。
長い黒髪が、揺れていた。
「き……貴様は……」
爪を振り下ろしかけた姿勢で、魔物は固まっている。黒髪の人物は、意に介す様子もなく、ホーリィの方へ向き直る。
それは、少女だった。ホーリィよりも、5歳は幼い少女。
凛とした緋色の瞳で、ホーリィを見詰め、揺るぐことなく立っている。
「ならばなぜ、今まで生きようとした?」
顔に似合わぬ口調で、少女は問う。
「それ、は……」
「小娘め……この程度で……我を封じたと思うなァァ―――!!」
突如、世界の時間が元に戻る。
その瞬間、ホーリィの頭を支配していたのは。
生きる意志などではなく。
ただ、目の前の少女を――
ざしゅっ。
紅い飛沫が飛び散る。
「う、く……」
ホーリィは膝を折り、斬り裂かれた胸を押さえた。しかしその指の隙間から、鮮血はだらだらと流れ落ちる。
「お、お前! なんて事を……!」
横向きに突き飛ばされた少女が叫んだ。先程までのような威圧のない、動揺した、か細い声で。
「なぜ、私をかばった……!」
「……俺が、今まで生きようとしたのは」
地面に倒れ込みながら、若者は微かに笑みを浮かべた。
あの時以来、初めて。
「きっと、目の前の誰かを、死なせないためだ」
ホーリィの意識は、そこで途切れた。
「莫迦な男だ」
魔物は、嘲笑する。
「どうせ、どちらも死ぬというのに」
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