沙羅弥
奇跡のようだった。
それは。
周りは血臭が凝って鼻が曲がりそうだった。──だが、それよりも目の前の惨状に燈子は立ち尽くしていた。
腕を抉り取られた兵士。
顔を焼かれた女。
恐らく侵入者の足を掴み、引きずられたのだろう、不自然な血流の先にある焼死体。
壁一面の白い大理石は今黒く光っている。
地面一面に無数に積み重なっている死体の残骸から飛び散ったものだった。
ガクガクと足が震えた。
──恐怖のためだろうか。
数刻前まではそこは平和だった。王は、待望の世継ぎに喜び、宴を開いていた。着飾ったご婦人が楚々と笑いながら、談笑を交わし、背筋の伸びた紳士が彼女たちをエスコートしていた。優雅な空間。散り散りに砕けている硝子の破片と中身のワインの紫がまだ滲みきっていないところから見ると、その時からまだそんなに立っていない筈だった。
(なのに)
存在(いき)しているのは、壮絶なまでに黒い化け物と燈子だけ。
彼は黒衣に身を包み、同じく濡玉のように艶のある髪を腰まで垂らしていた。白い肌。左右のステンド硝子から七色の月光が妖しいまでにその美しさを彩る。啼き叫んだ王妃をその形が無くなるまで華奢な掌から放つ蒼白い炎で焼き尽くした。
異形のモノ。
──赤ん坊が、泣く。
玉座の影の部分に王妃が隠していたのだ。
彼は王妃がしていた白いマフラーに抱かれ、その持ち主の死を悼んでいた。
耳を覆うほど悲痛だった。
(いけない)
暫くシャンデリアが吊り下がっていた天井を見つめ、動かなかった黒が、初めて気づきゆっくりと振り向く。
(殺される!!)
残虐な笑みが、唇に浮かぶのが、遠目でも分かる。──この男は殺しを楽しん
でいるのだ!!
(助けなくては)
赤ん坊は、彼女にとって死んだ王と王妃と同様に守らなくてはいけない者だった。
圧倒的な力の差、それを承知の上でも。
王の選りすぐりの術士が総掛かりでかかっても手を鳴らすだけで、結界を破るような、人外魔境相手でも。
(もう、私しかいないのだから)
燈子も、王に選ばれた側付きの術士の一人だった。しかし、男に首を掻き斬られそうになった瞬間、同じ術士の恋人が助けてくれたのだ。
(この命、無駄にしない)
長い髪の毛、一本一本にすら妖力が宿る、長身が赤い滴を落とす剣を、掲げる。
──燈子は、駆け出す。何が、出来なくてもいい。その身を盾にしてでも、己が主君を庇う心づもりであった。
その時、頬を長い何かが掠った。驚き、確かめる。前方に女性が現れていた。
金の影。
(眩しい)
波打つ腰まである金の髪は、窓から届く陽の光より輝かしく、白い肌と均整の取れたやや小柄な肢体のカーブは、露出の極力抑えられた司祭のローブをもってしても、隠しきれず、滑らかであった。
(あの方は!?)
何度か、見たことは、ある。
彼女たち燈子ら術士が、汚されぬよう守っていた、聖女。
術士のほとんどが死に絶え、彼女は解放されたのだ。
その聖乙女は、何かを、男と話しているようだった。腰を落として、弟を庇っている。
──男は、明らかに動揺していた。
「う……うわああああ!!」
男の発狂したような叫びが突然、響いた。
全神経を聴覚に費やしていた燈子は、予想外のことに反り返った。
「な……なに……」
男は、頭を抱えると、自らの開けた壁の大穴に飛び込んだ。
擦り抜ける、憔悴しきった貌にもう、猛毒は抜け落ちていた。
──燈子は、ただ呆然とその姿が横を通り過ぎるのを見送った。
「な、に」
亜弥は、彼を追いかけるでもなく、その場を動かない。
虚空を見つめ、空虚(うつろ)な感情を吐き出す。
──泣いていた。
零れ落ちる雫が頬の曲線を伝い、大きな水溜まりを作り上げる。紅い染みが白くなっていく。
喉も鳴らさず。静かな、絶望であり、哀しみであった。
燈子は、自らの感傷に重ね合わせた。
「亜……亜弥様……」
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