縛られたモノ
ピクリ。
……あ、ああ……。
……動く。
……動いた。
偶然ではない。確かに今、自分の指が、自分の意思で、動いたのだ。
……長かった。
……ここまで、どれほどの時がかかり、どれほどの季節が流れたのだろうか。
今は、西暦何年だろうか。
……まあ、生きている人間が決めた時間の基準など、どうでも良いことだ。ほぼ永劫の刻を過ごさねばならぬ私にとって、そんなものは無駄でしかない。
だが、私を包む《縛》。これは如何ともし難い物だ。
これがある限り、私の刻は意味が無い。
……忌まわしい。
線香花火のように儚い命しか持たぬ者が、永劫の刻を持つ私を支配するなど……。
……指一本を少し動かすのに、気が狂いそうな時間がかかった。
《縛》から解き放たれたい。
《縛》を受けていない、新しい体が欲しい。
人間がこの地に足を踏み入れるまで。
《縛》を受けていない人間が私のものになるまで。
私はあと何回、指一本を動かす刻を体感せねばならないのだろう……。
2x+7y+3z=37。
ディスプレイに表示された数学の問題に、トモヒロはさっと目を通した。
自由度の非常に高い、初歩の方程式の問題である。
x=1,y=5,z=0。
カタカタカタ……と記号に数字を打ち込んでゆく。
OR?
x=8,y=3,z=0。
OR?
x=5,y=3,z=2。
OR?
x=2,y=0,z=11。
OR?
x=0,y=4,z=3。
OR?
x=0,y=1,z=10。
OR?
不正解するか、コンピュータが壊れるか、解くほうが飽きるまで延々と続く味気ない数学の授業。説明を画面に表示し、後はこうして答えが無限に存在する問題を延々と解かせればいいのだから、楽なものだ。もう少し学年が進むと数値が限定されたり式が増えたり、更に高度なプログラムを使った授業になるらしいが、どうやらまだトモヒロは子供だと侮られているようだ。
コンピュータの発達に伴い教える側が怠惰になり、ティーチング・マシーンによる授業が主流となり、やがて学校という言葉が消える。
トモヒロは、その後の世代。学校を知らない子供だ。
今日も彼は、何の変哲もない機械の授業をいつものように受けていた。
淡々とした説明を聞くだけの、社会科の授業。
紙に書いてコンピュータに入れると、数秒で添削されて返ってくる漢字の書き取り。
そして、今やっている味気ない数学の問題。
14歳になったばかりのトモヒロにとって、そんな刺激のない毎日は耐えられないものである。
やがてディスプレイの電源を無造作に切り、彼は席を立った。
ポケットから取り出したセキュリティカードをドアに通して部屋を出て、玄関に真っ直ぐ向かう。
発売されたばかりの、従来の物比べて数段軽い超軽量スニーカーを履いて外に出る。
トモヒロの視界に、大小さまざまな機械で彩られた世界が広がった。
動く道路。空間を広く使うための段々状のビル。そして、空を飛ぶマイクロ・コンピュータによって完璧に管理されている天気、温度、湿度。
全て、人間の科学の発展がもたらしたものだ。
時は西暦2735年。28世紀の日本である。
……来ない。
……誰も来ない。
……人の気配が、無い。
……いったい、ここはどうなってしまったのであろう。
考えてみれば、私が誰にも気づかれることなくこの場にいられるのは非常に不自然なことなのだ。
つまり、人はもう、この場を必要としなくなったのか。
だとすれば、人間社会は、そこまで……。
私が指一本を動かそうとやっきになっている間に、そこまで遠くに来てしまったというのか。
……会いたい。
人間に、会いたい。
私を《縛》から解き放ってくれる人間に、会いたい……。
|